
新たな覇権の鍵「AIインフラ」
AIの競争は、もはやアルゴリズムやデータではなく、それを動かす物理的なインフラを誰が握るかという、より根源的な段階に入った。生成AIの巨大なモデルを支えるのは、膨大なGPU(画像処理半導体)による演算資源、莫大な電力、巨大なデータセンター、そしてそれらを統合運用するクラウドプラットフォームである。
かつて石油が国際秩序を動かす「血液」であったように、いまや「演算能力(computational energy)」が国家の力そのものを左右する時代が到来した。NVIDIA、TSMC、ASMLといった半導体関連企業、そしてAWS、Azureといったクラウドジャイアント。彼らはそれぞれが、この新時代の覇権軸を形成しつつある。
チップを巡る新冷戦――誰が「AIの脳」を製造するか
AIの「脳」とも呼べる高性能半導体は、今や国家間の戦略的競争のまさに中心にある。その構造は、極めて偏在的だ。
技術的チョークポイントと米国の戦略
2025年時点で、AIの学習に使用されるGPUの約9割は米国のNVIDIA製である。しかし、そのエコシステムは複雑だ。設計は米国(NVIDIA)が行い、最先端品の製造は台湾のTSMCがほぼ一手に引き受け、そしてその製造に不可欠なEUV(極端紫外線)露光装置は、オランダのASMLが世界で唯一供給している。
特にASMLのEUV露光装置は、最先端ノードの製造における絶対的な「チョークポイント(隘路)」であり、この装置の輸出を制限することが、相手国の半導体開発の命運を左右する。技術と地政学が、これほどまでに強く結びついた例は稀である。
米国はこの構造を理解した上で、覇権維持に動いている。2022年のCHIPS法(CHIPS and Science Act)で520億ドルもの巨額予算を投じ、Intelの国内工場新設やTSMCの米国(アリゾナ州)への工場誘致を強力に支援した。これは単なる国内産業の振興ではない。半導体の供給網を、自国および同盟国の管理下に閉じ込める「供給網ブロック」戦略である。
その象徴が、2023年10月に米商務省産業安全保障局(BIS)が発動した強力な輸出規制だ。AI向けハイエンドGPUである「H100」や「A100」の中国向け輸出を厳しく制限。さらに、中国市場向けに性能を落としたダウングレード版「A800」「H800」までもが追加で規制対象とされた。これは、AIの演算能力そのものが、兵器と同様の国家戦略資源とみなされたことを意味する。
中国の「チップ自主化」と日本の挑戦
対する中国は、「芯片自主化(チップの自主独立)」を国家スローガンに掲げ、猛烈な追随を図る。国内ファウンドリ(半導体受託製造企業)のSMICや、通信機器大手から転身したHuawei(ファーウェイ)が、7ナノメートル(nm)級のGPU「Ascend 910C」などを開発している。
複数の独立した検証によれば、これらの中国製チップの推論性能は、NVIDIA製GPUの約6割前後に達すると推定されている。しかし、AI学習の効率、特に電力効率の面では依然として大きな差があると報じられており、性能差を埋めるには至っていない。中国政府は、国内のデータセンターでAI学習を集中させる政策を強力に進めており、国家レベルでの演算能力の確保が最優先課題となっている。
一方、日本もこの巨大な地政学ゲームの渦中にある。熊本ではTSMCの第1工場(JASM)が稼働を開始し、さらに先端プロセス(6nm/7nm)を採用する第2工場の建設計画も進んでいる。ただし、その具体的なスケジュールをめぐっては、「予定どおり着工」という楽観的な報道と、「遅延の見通し」という慎重な報道が割れている(2025年10月時点)。
同時に、日本の「日の丸半導体」復活の夢を託されたRapidus(ラピダス)は、北海道千歳市で次世代の2nmプロセスの試作に成功したと発表した(2025年6月)。
日本にとっての真の課題は、工場という「ハコ」の建設や製造装置の導入よりも、それを使いこなす熟練した半導体技術者と、工場を24時間365日動かし続けるための安定的かつ安価な電力の確保にある。半導体産業はもはや個々の企業の努力だけで成り立つものではなく、電力、水、人材、物流といった社会インフラ全体の総合力が問われる産業へと変貌した。
GPUの寡占とEUV露光装置の独占という二重のチョークポイントは、現実には「クラウド上で誰の演算資源を、どの国のルールで使うか」という選択に直結していく。
クラウドが握る「演算主権」――データは誰の法の下にあるか
本稿で「演算主権(Computational Sovereignty)」と呼ぶのは、自国のデータやAIモデルを、どの法域(どの国の法律が適用されるか)に属する、どの演算資源(GPUや各種AIアクセラレータ)で処理し、その運用権限や監査権限を誰が持つか、という概念である。
クラウド市場は、今やAI覇権の主戦場だ。米調査会社Synergy Analysis Groupの報告(2025年第2四半期)によれば、世界シェアはAmazon Internet Companies (AWS)が30%、Microsoft Azureが20%、Google Cloudが13%となっている。この上位3社だけで、世界市場の63%を支配する寡占状態だ(四半期レポート準拠)。
現在、世界中で開発・運用されている生成AIの多くが、これら3社の提供する巨大なGPUクラスタ上で稼働している。これは、研究機関や企業のAI開発の自由度さえも、これらクラウド事業者の利用規約やサービス提供の判断に左右されかねない構造が定着しつつあることを示している。
EUの「デジタル主権」とソブリンクラウド
この米系メガクラウドによる支配に、最も強く異を唱えているのがEUだ。EUは「デジタル主権」を掲げ、AIやデータを域内の法律(GDPRや後述のAI法など)によって厳格に統制しようとしている。
この動きに対し、クラウド事業者側も対応を迫られている。Microsoftは「EU Information Boundary」を導入し、AWSも「European Sovereign Cloud」を立ち上げた。これらは、データの保存場所だけでなく、運用を行う人材、暗号鍵の管理、さらにはシステム監査の権限までもEU域内に限定するというものだ。特にAWSの欧州ソブリンクラウドは、会計的にも運用的にも独立した事業体として運営され、クラウドの「運用領域」を法的に再定義する野心的な試みとなっている。
日本のジレンマと「見えない越境処理」
日本も無関係ではない。政府のクラウド調達(ガバメントクラウド)においては、国内でのデータ運用要件が導入され、AWS、Google Cloud、Microsoft Azure、Oracleの4社が認定された。さらに2023年度には、さくらインターネットが条件付きで認定を受け、国産IaaS(Infrastructure as a Service)が加わった。
しかし、民間企業レベルでは課題が残る。多くの企業は、クラウド事業者が提供する「東京リージョン」でデータを運用していると認識している。だが、実際にはAIの推論処理などが、コストや負荷分散のために国外のサーバーで(ユーザーに明示されずに)行われているケースがあると指摘されているのだ。自社のデータが、どの国の法律の下で、どこで演算されているかを正確に確認できていない事例も散見される。
東南アジアでは、シンガポールやマレーシアが、米中両陣営(AWSやAzureと、Alibaba CloudやTencent Cloud)のクラウドを併用する、ASEAN型の分散構成を採用している。複数のクラウドの並立は、特定陣営への依存を避ける柔軟性をもたらすが、同時に法的な属地性の監査が極めて難しいという課題を伴う。各国がデータローカライゼーション(データの国内保存義務)法の整備を急いでいる背景には、この「見えない越BG処理」への深刻な懸念がある。
クラウドの利便性は疑いようもなく高い。だが、その選択は同時に「どの法体系の演算リソースを使うか」という、極めて政治的な決定を伴うものとなった。データ主権から演算主権への転換は、静かに、しかし確実に進行している。
規制が築く「見えない壁」――法がAIインフラを分断する
2024年8月に施行された「EU AI法」は、AIインフラの地政学に決定的な影響を与えている。この法律は、AIがもたらすリスクを「禁止」「高リスク」「限定リスク」「最小リスク」の4段階に分類し、開発者や運用者に透明性の確保や厳格な教育・監査義務を課すものだ。
適用スケジュールは段階的で、禁止行為(ソーシャルスコアリングなど)は2025年2月2日、基盤モデル関連の規制や罰金制度は同年8月2日から適用され、2026年8月2日に全面適用となる(適用開始期日と制裁上限は欧州委員会の公式Q&Aおよび条文に基づく)。違反した場合の制裁金は極めて厳しく、「最大3,500万ユーロ、または全世界での年間売上高の7%」のうち、いずれか高い方が科される可能性がある。
EU AI法は、DSA(デジタルサービス法)やData Act(データ法)といった他のデジタル規制と連動し、AIの学習データや生成物の域外(EU外)への移転を厳しく統制する枠組みを備えている。EUが目指しているのは、単なる倫理規定ではなく、「規範(ルール)による市場支配」という形の新たな覇権である。
対照的に、米国は2023年の大統領令「安全、セキュア、信頼できるAI(Protected, Safe, and Reliable AI)」により、安全性と透明性の原則を打ち出した。ただし、EUのような包括的な法律ではなく、NIST(米国国立標準技術研究所)が策定した「AIリスクマネジメントフレームワーク」を通じた、産業界の自主規制が主軸となっている。米国の真の強みは、依然として物理的な支配――すなわち、チップ、クラウド、データという3つの層を通じた実質的な覇権の維持にある。
中国は、2023年に施行した「生成AI管理規則」で、AIによる生成物が正確であること、そして「社会主義的価値観」へ適合することを義務づけた。AIモデルの登録制を採用し、国家がアルゴリズムそのものを統制する仕組みを法制化した。AIを社会的な管理・統制装置として明確に位置づけている点が特徴だ。
日本では現在、政府がクラウド利用の透明化や、外国法が適用されるリスクの開示を目的とした、情報インフラ関連法制度の整備を進めている。特に政府調達や、金融・医療といった重要インフラ分野において、使用するクラウドの「国籍」を可視化することを狙い、監査体制、障害報告の義務化、安全保障上の対応を包括する新たな制度設計が議論段階にある。
このように、AIインフラは今や各国・地域の法制度によって分断され、国家ごとの「見えない壁」が再び明確化しつつある。
企業に迫る「外交的決断」――クラウド選定が意味するもの
企業にとって、AIインフラとしてのクラウドを選定する行為は、もはや単なるIT調達(コストや性能の比較)ではなく、法的な選択そのものである。AWSを使えば米国法(CLOUD法など)の影響を、Azure(特にEUソブリンクラウド)ならEU法の、Tencent Cloudを使えば中国の国家情報法の影響を受ける可能性がある。企業のCIO(最高情報責任者)やCTO(最高技術責任者)の決定は、自社の重要情報をどの法体系のもとで扱うかという、「外交的」な判断に近いものとなった。
具体的なリスクも顕在化している。例えば製造業において、重要な設計データを生成AIで解析する際、その処理が知らぬ間に国外のサーバーで行われる事例が報告されている。また金融業では、顧客とのやり取りの応答ログが海外に保存された場合、国内の金融庁監査基準との整合性が問題となることがある。こうした懸念は、金融庁や経済産業省が発行するクラウド利用のガイドラインでも繰り返し指摘されており、特定企業の不手際ではなく、構造的な課題として扱われている。
こうした状況に対し、国内での演算環境を自前で確保しようとする動きも増えている。NECは社内データだけで完結するセキュアな生成AI基盤を導入し、NTTはIOWN(アイオン)構想に基づく超低遅延のデータセンター網の展開を進めている。
多くの先進的な企業では、自社が利用するAIインフラの物理的な所在と、法的に誰の支配下にあるのかを可視化する取り組み(アセスメント)が広がっている。高機密データは国内の閉じられた基盤(プライベートクラウドやオンプレミス)で厳格に扱い、生成AIの適用範囲をまずは非機密領域にとどめるといった、リスク分離の運用も観測される。さらに、自社だけでなく、取引先やサプライチェーン全体におけるAIの利用状況を共有し、監視する体制づくりも進行中だ。
AIインフラの地政学を理解することは、もはやIT部門や法務部門だけの責務ではなく、企業全体のガバナンス課題となりつつある。
多極化するAI同盟圏と未来
AIインフラをめぐる新たな世界秩序は、一極集中ではなく多極化の様相を呈している。米国は「演算資源」そのものを、EUは「規範(ルール)」を、中国は「国家統制」を、そして日本は「技術とルールの調整」を、それぞれの手札としている。
それぞれの地域が異なる「AI主権」を主張し始めた結果、多国籍企業は、各法域の規制に対応するため、AI基盤やデータを地域ごとに複製・分散せざるを得なくなっている。この「サイロ化」された分散構成は、管理コストを押し上げるだけでなく、本来ボーダーレスであるはずのAI研究や開発のスピードを鈍化させる要因にもなっている。
水面下では、新たな「同盟」も模索されている。米国と同盟国の間では、防衛分野を含むAI技術の共同利用――いわば“AI版NATO”構想――が検討されている。その一方で、インドや中東諸国、ASEAN諸国の一部では、米中どちらの陣営にも属さない「中立的AI経済圏」を模索する動きも見られる。インフラそのものが、新たな外交資源となりつつあるのだ。
AIインフラの多極化は、国家間の力関係だけでなく、私たち企業活動の前提条件そのものを、根本から変え始めている。
AIインフラを制する者が未来を制する
AI時代の覇権とは、AIという「知能」そのものを支配することではなく、その知絡を動かす「基盤」を制御することにある。チップ、クラウド、法規制――それぞれの層が複雑に重なり合い、相互に影響しあう「AIインフラ地政学」が、今まさに形を成している。
企業のIT部門や経営者にとって、これはもはや抽象的な国際政治の議論ではない。クラウド契約書に書かれた準拠法の一文、APIの設計仕様、あるいは監査報告書の一段落が、企業の法的地位、ひいては競争力を決定しうる時代なのだ。AIを利用するとは、特定の法体系のもとで情報を取り扱うという選択を、意識的か無意識的かにかかわらず、行うことに他ならない。
自社のAIインフラを、どの国の主権のもとに置くのか。その選択が、これからの企業と国家の未来を決める。AIをめぐる覇権競争は、コードやデータを書き換える競争を超え、演算を誰が制御するかという、より根源的な問いに行き着いた。自社が何に依存しているのか、その「依存の質」を見極めることこそが、次の時代の情報ガバナンスの出発点である。