QRコード決済のグローバル化の核となっているのが、国際的な決済技術の標準化団体EMVCoが定めた統一仕様だ。いわばQRコードの国際的な設計図とも呼べるものであり、これに準拠することで、世界中の決済システムが互いを理解できるようになった。この潮流を受け、日本は国内では「JPQR」で乱立した仕様の標準化を進め、訪日外国人(インバウンド)の受け入れでは、PayPayとAlipay+の連携という形で、すでに世界トップクラスの実用域に達している。さらに、日本独自の国際接続ハブ「JPQR World」は、カンボジアやインドネシアとの接続を実現させ、アジアにおける独自の決済ネットワーク構築へと具体的な一歩を踏み出した。
しかし、その一方で世界の最先端はさらに先を行く。各国の中央銀行が運営する即時送金網(IPS)そのものを直接結びつけ、銀行口座間の送金を国家間でシームレスに行う国際決済銀行(BIS)の壮大な構想「Venture Nexus」。その第一陣に、残念ながら日本の名は見当たらない。本稿では、2025年9月という最新の時点から、QR決済をめぐる標準化の技術的根幹、国際接続の最前線、そして「受け入れ」は進むものの「海外利用」に課題を残す日本の立ち位置を解説する。
EMVCoが築いた国際的な技術基盤— クロスボーダーを目指すQRコード
QRコード決済の国際的な相互運用性を理解する上で、EMVCo(エムコ)の存在は欠かせない。もともとはICカードの統一規格「EMV」を策定するためにVisa、Mastercardなどによって設立されたこの組織は、QRコード決済においてもその知見を活かし、極めて重要な役割を果たしている。彼らが成し遂げたのは、QRコードに格納されるデータの「表現形式」、つまり情報をどのような順番・構造で記録するかという国際的に通用するデータ構造を定義したことだ。
具体的には、「CPM(Shopper-Introduced Mode:消費者提示型)」と「MPM(Service provider-Introduced Mode:店舗提示型)」という2つの仕様が公開されている。前者は利用者がスマホ画面に表示したQRコードを店舗が読み取る方式、後者は店舗が掲示したQRコードを利用者が読み取る方式であり、日本でもおなじみの光景だ。この標準化が画期的なのは、その対象をあくまで「QRコード内部のデータ構造」に限定した点にある。QRコードを読み取った後の、事業者間の通信方法や清算・決済の具体的な手続き、あるいは国境を越える際の為替処理といった、より複雑なネットワーク層の取り決めについては、各国の法規制や事業者のビジネスモデルに委ねられている。
これは、EMVCoが非常に柔軟で拡張性の高い設計思想を採用したことを意味する。決済の入口となるQRコードの仕様という共通の技術仕様だけを提供し、それを使って「何を伝達し、どう取引を成立させるか」は当事者の自由に任せる。このアプローチにより、クレジットカード基盤の決済も、銀行口座と直結したデビット型の決済も、あるいはポイント決済でさえも、同じ技術基盤の上で共存し、互いに正しく解釈することが可能になった。この土台があったからこそ、QRコードは国境やサービスの違いを乗り越えるポテンシャルを獲得できたのである。
一枚のQRに無限の可能性を秘める技術:MPM仕様の核心
特に、店舗にQRコードを一枚掲示するだけで済むMPM仕様の内部構造には、この標準化思想の本質が凝縮されている。なぜ一枚のステッカーで、PayPayも、d払いも、そして海外の決済アプリまでも見分けられるのか。その秘密は、EMVCoが定めた「タグ構造」にある。
MPM仕様のQRコードをデータとして解読すると、そこにはID番号(タグ)とそれに対応する情報(バリュー)が規則正しく並んでいる。例えば、ID「00」はペイロード形式を示すインジケータ、ID「01」はQRコードが一度きりの動的なものか、繰り返し使える静的なものかを示す識別子だ。そして、データの正しさを検証するためのチェックサムであるID「63」のCRC。これらの必須項目は、いわばQRコードの「グローバルな自己紹介」であり、世界中のどの決済アプリでも、まずこの部分を読むことで「これはEMVCo仕様のQRコードだ」と理解し、同じ手順で処理を開始できる。
MPM仕様の真骨頂は、ID「02」から「51」の間に定義された「マーチャントアカウントインフォメーション」、つまり加盟店の勘定情報が格納される領域だ。この領域は、複数の決済サービスを同居させられるように巧みに設計されている。特にID「26」から「51」は「テンプレート」と呼ばれる構造になっており、まず「Globally Distinctive Identifier(GUI)」、すなわち世界で一意となる識別子を配置し、その識別子の下に各決済サービス固有の情報をぶら下げる、いわば「整理棚と引き出し」のような構造を取る。
例えば、日本のJPQRであれば「jp.or.paymentsjapan」というGUIの下に、各決済事業者の情報が格納される。Alipay+であれば、同様にAlipay+のGUIの下に情報が続く。アプリはQRコードを読み取ると、このGUIのリストを上から順に確認し、自らが対応するGUIを見つけると、その中の情報を読み込んで決済処理を進める。もし対応するGUIがなければ、単に無視するだけだ。この仕組みにより、日本のJPQR、シンガポールのSGQR、タイのThai QRといった各国の統一規格や、Alipay+のような国際的なスキームが、互いに干渉することなく一枚のQRコードに共存できる。店舗側はたった一枚のQRコードをレジ横に貼るだけで、未来に登場するであろう新しい決済サービスにも理論上は対応できるのである。
世界の潮流:「EMVCo準拠」を土台とする各国の統一QR
このEMVCo準拠というグローバルな「器」に、自国の金融インフラや商習慣、法規制といったローカルな「中身」を盛り込むアプローチは、今や世界的な潮流となっている。その先進事例が、シンガポールの「SGQR」だ。金融通貨庁(MAS)などが主導し、国内で乱立していた決済スキームをEMVCoのMPM仕様をベースに一枚のQRラベルに統合。これにより、国民の利便性を劇的に向上させると同時に、加盟店の負担を大幅に軽減した。
タイの「Thai QR」はさらに一歩進んでいる。タイ中央銀行(BOT)の監督下でEMVCo準拠の標準を採用しただけでなく、国内の即時送金ネットワーク「PromptPay」と完全に一体化して運用されている点が特徴だ。PromptPayは、国民IDや携帯電話番号に銀行口座を紐づけることで、24時間365日、安価で瞬時に送金ができるインフラであり、タイ国民の生活に不可欠な存在となっている。Thai QRでの支払いは、このPromptPayを通じて即座に相手の口座に入金される。これは、QRコード決済が単なるキャッシュレス手段にとどまらず、国家の基幹的な金融インフラとして機能している好例だ。
このように、各国はEMVCoという世界共通の設計図を基盤としながら、自国のKYC(本人確認)要件や清算ルールの取り決めを「上乗せ」することで、国内の決済環境を整備し、同時に将来的な国際相互運用の扉を開いているのである。
日本の標準化戦略:JPQRが目指した国内統一と国際連携の布石
日本もまた、この世界的な潮流を的確に捉えてきた。2019年、一般社団法人キャッシュレス推進協議会が公表した「コード決済に関する統一技術仕様ガイドライン」、すなわち「JPQR」は、まさにEMVCoのMPM仕様への準拠を明確に定めたものだった。
当時の日本は、通信キャリア、IT企業、金融機関などがそれぞれ独自のQRコード決済サービスを立ち上げ、「百花繚乱」と言えば聞こえは良いが、実態は加盟店にとっても利用者にとっても混乱の極みにあった。レジ周りには何種類ものQRコードが並び、どの決済サービスが使えるのか一目でわからない。JPQRの第一の狙いは、この国内の混乱を収拾し、店舗側が一枚のQRコードで複数のサービスを自動識別できるようにすることにあった。
しかし、その視野は国内だけに留まっていなかった。EMVCoという国際標準に準拠することで、海外の決済事業者を受け入れる際の技術的な障壁を下げ、逆に日本の決済事業者が海外展開を目指す際の道筋をつけるという、国際連携への明確な布石でもあったのだ。さらに、日本は単なる標準の受け手ではない。JCBがEMVCoのボードメンバーとして意思決定プロセスに直接関与しており、標準策定の段階から日本、ひいてはアジア市場の声を反映させてきた。これは、国際的なルールメイキングの場で日本の存在感を確保する上で、極めて重要な戦略的資産となっている。
日本のインバウンド決済の現在地
標準化という土台が整備される中、訪日観光客が自国の慣れ親しんだ決済アプリを日本の店舗でそのまま利用できる環境は、この1年で目覚ましい進化を遂げた。その最大の立役者が、国内最大手のPayPayと、グローバルな決済・マーケティングプラットフォームを構築するAlipay+との戦略的連携である。
この連携により、韓国のKakao Pay、香港のAlipayHK、タイのTrueMoney、フィリピンのGCashなど、アジア各国の主要ウォレットのユーザーは、全国300万店を超えるPayPay加盟店に設置されたQRコードを自身のアプリでスキャンするだけで、両替の手間もなく、為替レートを意識することもなく、シームレスに決済できるようになった。
PayPayが公表している2024年度の単体取扱高は12.5兆円、決済回数は78億回を超え、国内コード決済市場で圧倒的なシェアを誇る。この巨大な加盟店ネットワークがAlipay+を通じて海外のウォレットに一挙に開放されたインパクトは計り知れない。これにより、日本のインバウンド決済における「受け入れ面の厚み」は、今や世界でも屈指のレベルに達したと言って過言ではないだろう。
日本発の国際ハブ構想:「JPQR World」の静かなる挑戦
民間主導のダイナミックな動きと並行して、日本独自の国際接続ハブ構想も着実に具現化しつつある。キャッシュレス推進協議会が推進する「JPQR World」がそれだ。これは、日本の統一規格であるJPQRと、海外の統一QR規格を直接結びつけ、国家間の相互利用を実現しようとする野心的な試みである。
その記念すべき第一号案件は、2025年7月4日、カンボジア国立銀行(NBC)との間で正式にローンチされた。これにより、大阪・関西万博の会場などを皮切りに、カンボジアの統一QR「KHQR」に対応した決済アプリから日本のJPQRを読み取って決済できるようになった。さらに、間髪入れずに8月17日にはインドネシアの統一QR「QRIS」からJPQRへの決済受け入れも開始され、一部店舗から展開が進んでいる。この二国間接続を着実に積み上げていくアプローチは、万博を国際的なショーケースとしながら、まずは経済的な結びつきが強いアジア各国の統一QRとの連携を段階的に拡大していくという、日本の現実的な戦略を明確に示している。
次なる地平:多国間即時送金網「Venture Nexus」と日本の戦略的立ち位置
QRコードの標準化が「決済の入口」を整える第一段階だとすれば、その先には「決済の出口」、すなわち各国の金融システムそのものをいかに効率的に繋ぐかという、より壮大で根源的な課題が控えている。この領域で今、世界中の金融当局から最も熱い視線を集めているのが、国際決済銀行(BIS)が主導する「Venture Nexus」である。
これは、各国に存在する「即時送金網(IPS)」を「ハブ&スポーク」モデルで多国間接続し、従来の国際銀行間通信協会(SWIFT)などを介する送金よりも、圧倒的に安価で高速な国際送金・決済を実現しようという構想だ。シンガポールのPayNow、タイのPromptPay、インドのUPIなどが各国のIPSにあたり、いずれもQRコード決済と一体化して国民の生活に深く根付いている。Nexusは、これらの国内インフラを国境を越えて直結する、いわば「送金網のインターネット」を構築しようという試みに他ならない。
現在、インド、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイが創設メンバーとして2026年の本格稼働を目指しており、実現すれば、銀行口座直結型のリアルタイム越境決済が現実のものとなる。しかし、この第一陣の枠組みに日本の名は含まれていない。これは、日本の国際接続戦略が、当面はJPQR Globalを軸とした二国間連携の積み上げに重点を置く一方で、中央銀行システムを直接繋ぐ多国間スキームに対しては、慎重な姿勢を取っていることを示唆している。日本の全銀システムと海外のIPSを直接結びつけるこの巨大な構想と、今後どのように関わっていくのか。これは日本の金融戦略における次なる重要な論点となるだろう。
「受け入れ先行」から真の「相互運用」になるか—日本の次なる一手
これまでの動向を俯瞰すると、日本のQRコード決済における国際化は、「標準化のレイヤー」と「ネットワーク接続のレイヤー」という2つの階層で理解することができる。前者、すなわちEMVCoという世界共通の技術解釈においては、JPQRの準拠により、日本は確実に国際的な枠組みの中にいる。一方、後者のネットワーク接続においては、「海外ウォレットを日本で受け入れる」インバウンド対応では世界をリードするほどの成果を上げているが、「日本のウォレットを海外でそのまま使う」アウトバウンド体験の拡張はまだ始まったばかりだ。「受け入れ先行」から、双方向の真の「相互運用」へ。これこそが日本の現在地であり、未来への課題である。
今後の鍵を握るのは、JPQR Globalの接続先を二国間連携に留めず、いかに多国間化できるか、そして為替や清算、さらには国際的なマネーロンダリング対策(AML)といった制度面の課題をいかに迅速にクリアできるかにある。特に、中央銀行が主導し、口座ベースの即時決済とQRコードが一体となったエコシステムを築き上げているASEAN諸国との連携は、日本の成長戦略にとって不可欠だ。
日本が誇る世界有数の加盟店網と、競争力のある国内決済事業者の強みを、アジアで急速に進展する多国間接続の潮流にどう戦略的に重ね合わせていくか。EMVCoという共通の技術基盤を自在に使いこなし、JPQRをハブとしてProject Nexusを含む国際的な送金レールとの整合性を深めていくこと。それこそが、日本のキャッシュレス社会が次なるステージへと進化し、デジタル経済時代における国際競争力を維持・強化するための、最も重要な航路となるに違いない。