
導入率と浸透度──導入率の数字以上に重要なのは、質的な浸透度
―― 日本企業の中でAIは今、どの程度普及しているのでしょうか。
橋口 私の肌感では、もはや「AIを使っていない企業はゼロ」と言ってもいいくらいです。Google時代からの付き合いがある企業が中心なので、デジタルに強い会社が多いというバイアスはありますが、それでも導入はほぼ全社的に進んでいます。これまでは「やってみた」「触ってみた」というPoC(概念実証)がベースでしたが、今年4月ぐらいからは生成AI推進部や予算をもっている専門部隊が誕生してきています。昨年あたりからAIエージェントという単語はでてきているのですが、AI周りの技術的基盤がそろい始めたのが今年の春ぐらいからなので、ニュースで出ているほどの華やかな社内事例というのは、まだ身近では出ていないというのが実感です。
野田 博報堂DYホールディングスのグループ会社は400社超ありますが、業務領域が広告・マーケティング中心に幅広く展開していることもあり、導入状況にはグラデーションがあります。ただ、共通して見られるのは「ゼロイチの企画立ち上げ」や「定型業務の効率化」にAIが活用されている点ですね。日本の産業全体でみると、AIの導入率に関しては様々な調査があり、サンプリングの違いもありますが、概ね3~4割程度。実感としても3〜4割が妥当なところでしょう。ただ、導入率の数字以上に重要なのは、「どの部署が、どの目的で使っているか」という質的な浸透度です。たとえば、経理部門での帳票処理と、企画部門でのアイデア生成では、AIの役割も成果もまったく異なります。
橋口 さらに、導入済みとされる企業でも、実際には一部の部署だけが使っているケースも多く、「全社導入」と「部分導入」の違いを見極める必要があります。
活用領域──「使いやすさ」と「収益性」が分かれ目
―― AIはどのような分野で積極的に活用されていますか。
野田 AI活用の分かれ目は「使い方がわかるかどうか」。特に多いのは、問い合わせ対応や経理業務などの定型業務です。最近では、社内の問い合わせ窓口をAIボットで切り分ける事例も増えています。
橋口 マーケティング、営業支援、カスタマーサポート、企画、HRなどが導入しやすい領域ですね。AIエージェント系のプロダクトが増えていることとも一致しています。
野田 収益性の観点では、コールセンターやサポートセンターでの活用が顧客満足度向上に直結しており、効果が見えやすいです。接客メールや企画書作成などの時間削減効果も大きいですね。
橋口 競争優位性につながる活用は、まだ日本では事例が少ないですが、ECや金融・保険などのダイレクトセールス領域では海外で先行して進んでいます。生成AIはあくまで「道具」なので、技術と自社の強みをどう結びつけるかが鍵です。
野田 最近では、社内FAQ(よくある質問)の自動化、議事録の要約、契約書のドラフト生成など、業務の“前処理”や0→1のたたき台をAIに任せることで、担当者の判断や創造に集中できる環境づくりが進んでいます。
橋口 「AIがやるべきこと」と「人間がやるべきこと」の線引きが明確な企業ほど、活用が定着していますね。
導入体制──「データ・ガバナンス・教育」の三本柱
―― AIを導入するにあたってどのような体制や準備が必要なのでしょうか。
野田 弊社では「データ整備」「ガバナンス」「教育」の三本柱で体制を整えています。データは継続的にAIに供給できる仕組みが必要ですし、ガバナンスはサービスのアップデートに対応するため、グループ企業横断の分科会を設けています。
橋口 教育面では、使い方がわからない人が一定数いるので、Zoomで画面共有しながら「ここをクリックしてください」といったレベルで伴走する必要があります。ファーストビューだけで使える人は2割程度でしょう。
―― 日本の大企業は組織のサイロ化がAI導入をはじめとしたDXの大きな障害になっているといわれていますが、こうした問題に対しては、どのような対応がとられていますか。
野田 AI推進を社内で広げるには、各部署に推進リーダーを立てるのが効果的です。推進チームとチャンピオンを各部署に設け、現場に根差した推進体制をつくることで、各部門のニーズに応じた展開が可能になります。また、サイロ化を乗り越える工夫としては、コスト意識、KPI(Key Efficiency Indicator、重要業績評価指標)の設定や称賛・表出の設計が重要です。社内での取り組みをプレスリリースで外部に発信することで、モチベーションを高める仕掛けも有効です。
橋口 トップダウンのメッセージも不可欠です。AIの活用を評価軸に組み込む企業もあり、たとえば「AIを使えないと評価が下がる」といった明確なメッセージを出す企業が出てきています。また、AIアンバサダー制度や評価制度に組み込む企業も出てきています。ユースケースの辞書化やライブラリー化も進んでおり、使い方の共有が鍵になりますね。
野田 さらに、弊社で実施している逆メンター制度のように、現場の若手が経営層にAIの使い方を教える仕組みも効果的です。これにより、経営層の理解度が高まり、全社的な推進力が生まれます。
―― ユースケースの共有なども効果的ではないですか。
橋口 ChatGPTなら“GPTs”、Geminiなら“Gems(ジェムズ)”のように、社内でユースケースをライブラリー化することで、誰でも使える環境を整えることが重要です。この仕掛けがあることで、現場の自律的な活用が進み、AIの定着が加速します。
野田 私自身も導入推進初期には「どう使っていいか分からない」という現場の質問の嵐にぶつかりました。ユースケースをひたすら読み込みシェアすることで発想が広がった経験があります。この体験を踏まえ、教育の場でもユースケースを事例化し、辞書的に共有することが重要だと感じています。
―― 生成AIを活用するためにはデータを学習させる必要があると思いますが、どういった点に注意すればいいでしょうか。
野田 AIネイティブ企業を目指すには、まずデータの蓄積とAIが学習しやすい状態への整備が不可欠です。議事録の文字起こしツールなどを活用し、社内データをクラウドに集約する動きが加速しています。
橋口 AIが社内システムを読めるようにするには、MCP(AIモデルと外部サービスをつなぐための“接続仕様”や“連携プロトコル”)などのインターフェース整備が必要です。ChatGPTやGeminiなどのモデルが社内データにアクセスできるようにするには、セキュリティや認証の課題も含めた設計が求められます。
野田 クラウド化は大前提です。ローカルにデータがあるとAIが活用できないため、Enterprise向けAI-SaaSの導入が理想です。議事録や資料をAIに学習させ、プロジェクトの文脈を即座に把握できる仕組みは、実際に多くの企業で導入されています。
橋口 最近注目しているのは、メタデータやソーシャルコンテキストを活用した検索です。誰がどの情報に詳しいかをAIが理解し、一次情報に基づいた信頼性の高い回答を生成する仕組みが登場しています。
導入ステップ──POCから本格展開へ
―― AIを導入する際に最初に注意しなければならないことはなんですか。
橋口 生成AIの導入は、まずPoCから始まります。たとえば契約書作成や議事録要約など、明確なユースケースを設定し、小規模な検証を行うことで、導入のハードルを下げることができます。
野田 PoCの段階では、AIの正答率や処理速度、セキュリティリスクなどを見極めることが重要です。特にプロンプトインジェクション(AIが本来意図していない出力を生成させる攻撃手法)のような攻撃手法への対策は、導入初期から検討していました。
橋口 本格導入にあたっては、クラウド環境の整備が不可欠です。ローカルにデータがあるとAIが活用できないため、Google WorkspaceやMicrosoft 365のようなクラウドベースの業務環境が理想です。
野田 最近では、SLM(Small Language Mannequin)をローカルで動かす流れも出てきています。領域特化型の軽量モデルを社内に組み込むことで、コストを抑えつつ高精度な処理が可能になります。導入ステップの中で最も重要なのは「期待値調整」です。AIに完璧を求めるのではなく、「たたき台」として活用する姿勢が、成功の鍵になります。しかしその一方で、正答率への過剰な期待が導入を阻むケースもあります。とある自治体では、ChatGPTを活用した「ごみ出し案内ボット」の導入を検討しましたが、正答率が本格導入基準の99%に届かず、導入を断念しました。結局、AIの出した答えが正しいかどうかは、人間が判断する必要があります。経費精算のエージェントを導入した企業でも、最終的には「経理担当者に確認したい」という心理が残るかもしれません。そうした心理を理解した上でAIを使っていかなければならないと思います。
橋口 その心理を前提に、AIに「経理担当者の判断軸」を学習させることで、より信頼性の高いエージェント設計が可能になります。人間中心のAI設計とは、こうした心理的安全性を担保することでもあります。
成果測定──KPIと期待値調整
―― AIを導入する際に、その成果をどのようにして評価するかが重要なカギとなりますが、効果測定はどのように行えばいいでしょうか。
野田 弊社では、業務効率化の分科会で「○%以上の業務時間削減」といった定量目標をKPIとして設定していました。この基準を満たす事例を各部門から共有してもらい、全社的なベストプラクティスとして展開していました。
橋口 定量的なKPIを設定することで、導入の成果が可視化され、社内の説得力も高まります。AI導入は「なんとなく便利」ではなく、「明確な成果」を示すことが重要です。
野田 生成AIの正答率は7割程度です。これを前提に「たたき台」として使う姿勢が重要です。たとえば企画書作成では、AIが出した案を人間が仕上げることで、3〜4割の工数削減が可能になります。
橋口 人間のマネジメントと同じで、「AIに任せる部分」と「自分で仕上げる部分」を分けることが成功の鍵です。日本人は「100percent正しい回答」を期待しがちですが、その期待値を調整しないと、導入が失敗に終わるケースもあります。
野田 自治体のゴミ分別ボットの失敗事例のように、正答率99percentでも「100percentじゃないからダメ」と見送られる事例もあります。人間でも間違えるのに、AIにだけ完璧を求めるのは非現実的です。
―― 生成AIを活用して企業の競争優位性を高めるにはどうすればいいでしょうか。
橋口 生成AIはあくまで「道具」であって、それ自体が競争優位性を生むわけではありません。重要なのは、自社の強み──たとえば独自データや業務オペレーションの精度の工夫──と技術をどう結びつけるかです。
野田 まさにその通りです。経営戦略論で言えば、ポジショニング派とオペレーショナル・エクセレンス派に分かれますが、統計的には後者の方が収益性に直結しています。生成AIは、オペレーショナル・エクセレンスを加速させる手段として非常に有効です。
野田 中国では、デジタルヒューマンによる接客やインフルエンサー活用によって売上を急伸させる事例が出ています。これは「スピードが競争力になる」フェーズで、早く着手した企業が勝つ構造です。
橋口 ただし、これがコモディティ化してくると、単なる導入では差別化できなくなります。AIと自社の競争優位性をどう結びつけるか──この解釈力が問われる時代に入ってきています。
結語──生成AIは「使う技術」から「使いこなす文化」へ
生成AIは、単なる業務効率化のツールではない。導入率や活用領域の広がりは、企業の変革意欲と文化の成熟度を映し出す鏡でもある。重要なのは、技術を導入することではなく、組織として使いこなすこと。教育、ガバナンス、ユースケースの共有、そして人間中心設計──これらを統合的に整備することで、生成AIは企業の競争力を支える「相棒」となる。次なるフェーズは、「触ってみた」から「戦略的に使う」へ。その一歩をどう踏み出すかが、企業の未来を左右する。