Tuesday, October 28, 2025
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「1円入札」はなぜ問題なのか



「1円入札」が生まれるメカニズム

公共調達の現場で、時として世間を驚かせる「1円入札」。これは、自治体や国の機関が事業を発注する際に設定する予定価格とはかけ離れた、文字通り1円やそれに近い極端な低価格で企業が入札し、落札に至る現象を指します。納税者の視点から見れば、支出が最小限に抑えられることは歓迎すべきことに思えるかもしれません。しかし、この異常な価格の裏には、単純な安売りとは異なる、複雑で根深い構造が存在します。

歴史的に、このような極端なダンピング(不当廉売)は、契約内容の不履行や、提供されるサービスの著しい品質劣化を引き起こす温床となってきました。そのため、日本の公共調達制度では、こうした事態を防ぐための仕組みが設けられています。代表的なものが「低入札価格調査制度」と「最低制限価格制度」です。前者は、異常に低い価格で入札した企業に対し、その価格で契約を確実に履行できるのか、積算根拠は合理的かなどを個別に調査し、履行能力がないと判断されれば失格とする制度です。後者は、あらかじめ「これを下回る価格での入札は無効」という最低ライン(最低制限価格)を設定し、それを下回った入札者を自動的に失格とする、より強制力の強い仕組みです。国土交通省をはじめとする関係省庁は、社会経済情勢の変化に対応するため、これらの制度の基準を繰り返し見直し、ダンピング対策の強化を図っています。

では、なぜこのような規制があるにもかかわらず、1円入札はなくならないのでしょうか。その答えは、企業側の巧みなビジネスモデルに隠されています。最も古典的で分かりやすい例が、役所の複写機(コピー機)の入札です。過去には、複写機本体を1円で落札し、その後の保守メンテナンス契約や、専用のトナー・インクカートリッジといった消耗品の販売で利益を確保するというスキームが横行しました。本体価格だけを見れば自治体にとって非常に有利な契約に見えますが、数年間にわたる運用期間全体で見ると、結果的に高額な支出を強いられるケースが少なくありませんでした。これは、単体の契約では赤字であっても、それに付随する別の契約や将来にわたる取引全体で利益を最大化しようとする、企業側から見た「全体最適」の発想に基づいています。

そして近年、この構造はIT・デジタル分野のサービス調達において、より巧妙な形で再現されています。例えば、電子契約サービスの導入業務などで1円に近い価格での落札事例が報告されています。これは、初期導入費用をほぼ無償にすることで、まずは自治体や公共機関に自社サービスを導入させ、市場でのシェアを確立することを狙った戦略です。一度導入されれば、そのシステムは日々の業務に深く組み込まれていきます。そうなると、後から発生するユーザーライセンスの追加費用や、システムのカスタマイズ、他システムとの連携、データの移行といった場面で、発注者側は最初に導入した特定の事業者(ベンダー)に依存せざるを得なくなります。いわゆる「ベンダーロックイン」と呼ばれるこの状態に陥ると、発注者は価格交渉で不利な立場に立たされ、長期的に見れば高額な費用を支払い続けることになりかねません。これは、普及すればするほどサービスの価値が高まる「ネットワーク効果」を狙った、SaaS(Software program as a Service)と呼ばれるクラウドサービスに典型的なビジネスモデルであり、公共調達の世界にもその波が押し寄せているのです。

価格の裏で失われるもの:品質、コスト、公正な競争

1円入札がもたらす問題は、単に長期的なコスト増に留まりません。むしろ、公共サービスの質そのものや、市場の健全性を根底から揺るがしかねない、より深刻なリスクを内包しています。

最大のリスクは、言うまでもなく「品質の低下」と「履行の不確実性」です。1円という価格は、事業に必要な人件費、材料費、経費といったコストを到底賄えるものではありません。このような価格で契約を履行するためには、どこかで無理が生じます。例えば、経験豊富で高いスキルを持つ技術者の代わりに未熟な担当者を配置したり、本来必要な人員を削減したり、仕様書に明記されていない部分の作業を省略したりといった、目に見えにくい形での手抜きが発生しやすくなります。その結果、完成したシステムに不具合が頻発する、定められた工期が遅延する、といった事態を招きます。そうなれば、手戻りや補修のために追加の行政コストが発生し、住民サービスに支障をきたすことにもなりかねません。公共工事の品質確保を目的とする「品確法」などが、過度な安値競争に警鐘を鳴らしているのは、まさにこのためです。

次に深刻なのが、先にも触れた「隠れコスト(Hidden Value)」の問題です。初期費用が1円であっても、5年、10年というライフサイクル全体で見た総所有コスト(TCO: Complete Value of Possession)を算出しなければ、その調達が本当に経済的であったかを正しく評価することはできません。情報システムの世界では、初期導入費、毎年の保守運用費、機能追加の開発費、セキュリティ対策の更新費、そして将来システムを刷新する際のデータ移行費など、様々なコストが発生します。1円入札は、これらの将来費用を見えにくくし、発注者の判断を誤らせる巧妙な罠となり得ます。公正取引委員会の調査でも、こうした付随的なサービス市場の構造によっては、他の事業者の参入を困難にし、競争を阻害する効果を生む可能性が指摘されています。

そして三つ目の問題は、よりマクロな視点での「競争秩序の歪み」です。戦略的な赤字受注である1円入札は、豊富な資金力を持つ大企業だからこそ可能な戦術です。一方で、適正な価格で質の高いサービスを提供しようとする誠実な中小企業は、価格競争の段階で太刀打ちできず、公共調達の市場から締め出されてしまいます。このような状況が続けば、市場に参入する事業者は減少し、多様性が失われていきます。短期的には価格が下がったように見えても、中長期的には競争相手がいない状況が生まれ、価格はかえって高止まりし、サービスの選択肢も乏しくなるという、まさに本末転倒の結果を招くのです。市民団体などが監視している落札率(予定価格に対する落札価格の割合)の分布は、談合のような高すぎる落札率だけでなく、異常に低い落札率や入札そのものが不成立に終わる「入札不調」の増加といった、市場が不健康になっているサインを読み解く上で重要な指標となります。

最後に、こうした状況は「行政マネジメントの硬直化」という問題にも繋がります。超低価格での受注は、多くの場合、契約後の仕様変更やオプションサービスの追加購入を前提とした費用設計になっています。これは、発注者である行政側が、当初の契約や仕様書の段階で将来の必要性を完全に見通せていない場合に、より顕著になります。結果として、後から次々と発生する追加費用に対応せざるを得なくなり、行政側の予算執行の裁量が著しく縛られてしまうのです。2019年の東京オリンピック・パラリンピックで使用される空手用マットが1円で落札された事例は大きな議論を呼びましたが、公共性の高い事業であればあるほど、「価格の合理性」と「公共の利益」をいかに両立させるかという説明責任は、より一層重くのしかかります。

“最安値”から“最適値”へ:未来のための公共調達改革

1円入札がもたらす歪みを是正し、公共調達を健全な姿に戻すためには、どうすればよいのでしょうか。その鍵は、単に価格の安さだけを追求する「最安値」の思想から、品質や長期的なコスト、社会的な価値までを含めて総合的に判断する「最適値」の思想へと、発想を転換することにあります。その実現には、制度的な対策と、発注者側の運用改善の両輪が不可欠です。

制度面では、前述した「最低制限価格制度」「低入札価格調査制度」に加え、「総合評価落札方式」という三つの柱を適切に組み合わせることが重要です。総合評価落札方式とは、入札価格の安さだけでなく、事業者の技術力や実績、提案内容の質などを点数化し、価格点と合計して最も評価の高い事業者を選ぶ方式です。これにより、価格一辺倒の競争を避け、品質や創意工夫を重視する事業者が正当に評価される機会が生まれます。国も、公共建築工事などでこの方式の活用を推奨しており、自治体においてもその導入が進んでいます。

しかし、これらの制度も万能ではありません。最低制限価格は、設定が高すぎれば競争を阻害し、低すぎればダンピング抑止の効果が薄れてしまいます。低入札調査は、一件ごとに詳細な調査を行うため、行政職員の大きな負担となります。総合評価方式も、評価項目の設計や配点の付け方次第では、形骸化してしまう恐れがあります。そこで、自治体レベルでの独自の工夫も生まれています。例えば東京都世田谷区では、過去に1円入札が発生したことを教訓に、委託契約の種類や性質に応じて最低制限価格の算定方法を柔軟に変える「変動型最低制限価格制度」を導入し、過度な低価格競争を抑止する効果を上げています。

こうした制度を実効性のあるものにするためには、発注者側の運用能力の向上が欠かせません。是正への第一歩は、調達の企画・設計段階で、価格だけを目的化しない思想を徹底することです。具体的には、情報システムなどの調達において、ライフサイクル全体で発生する総所有コスト(TCO)の視点を仕様書や評価基準に明確に組み込むことが求められます。初期費用だけでなく、将来のユーザー増員コスト、保守費用、データ移行費用なども評価対象に含めることで、「初期1円」という見せかけの価格に惑わされることなく、真に経済的な選択が可能になります。

第二に、成果や品質を客観的に測るための「指標化」です。総合評価方式の枠組みの中で、セキュリティ水準、システムの応答時間、障害発生時の復旧時間、運用体制の信頼性といった、具体的な測定可能な要件を評価項目や契約条項に盛り込みます。これにより、事業者は価格だけでなく品質面でも競争することになり、結果として公共サービスの質の向上に繋がります。

そして最後に、最も重要なのが「説明責任の徹底」です。もし仮に1円という極端な低価格での落札を認めるのであれば、行政は「なぜその価格で契約内容を適正に履行できるのか」「ライフサイクル全体で見たときに、それは本当に公共の利益に資するのか」という問いに対して、調査・審査のプロセスを通じて明確な根拠を持ち、その内容を住民に対していつでも開示できる状態にしておく必要があります。価格はあくまで調達の“結果”であり、それ自体が“目的”ではないのです。この原則を制度と実務の両面で担保していくことこそが、1円入札がもたらす様々なリスクを最小化し、健全な競争と質の高い公共サービスを両立させるための、最も確実な道筋と言えるでしょう。

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